RÓT by FYLGDU MÉR

INTERVIEW

美が開く、生命の流れへの入り口

橋本雅也 インタビュー

ニホンジカの骨や角を素材として、身近な草木の姿を写しとった精緻な作品で近年注目を集めている彫刻家・橋本雅也さん。毎年手がけるという水仙の作品を通したインタビューから、美しさの背景にある生命との分かちがたいつながりが浮かび上がった。

植物の自然の成り立ちを理解し、彫る

水仙に限らず、作品を彫るときは必ず、摘んできた植物を水差しに入れて、目の前に置きます。自然の中では、ある一定の方向からの光を受けて植物は育ちますが、その個体がどの方向から光を受けてきたかを判断し、作業を組み立てていかなければならないんです。と言うのも、鹿の骨や角は中心部にスが入っていて、彫刻に使える密な部分の厚みは1センチに満たないくらい。そのため実際の形のとおりに彫れるわけではなく、持っている素材の中で形を探らなければなりません。水仙だったら、葉っぱなり花なりが光を受けている方向から、どのように形が流れるのが自然かを一旦咀嚼しなければならない。最初はストレスに感じていたのですが、それがモチーフを理解する上で大切な作業になっていると次第に気づき始めました。太陽の方角から水仙の花や葉の動きを組み立てる作業は、その水仙が生きる環境も同時に理解して彫ることなんです。
「虫に食べられるとこんな風にひしゃげるんだな」などと観察しておくことが必要なので、彫り終わって枯れても水仙をずっと置いておくんです。そうすると、ゆるやかな葉っぱの曲線がより顕著な形になるなど、生きていると見えなかった本質のような動きが浮き出てくるんです。彫る時にはあまりものを考えず、自然の摂理から外れないように形を決めるのが大切なので、普段から目につくところに花を置いて見るようにしています。

植物の世界への絶対的な信頼

ある時、水仙の葉っぱが綺麗だなあと思ってスケッチをしていました。ひたすら水仙を見ていたら突然、ものすごくそれが完璧なんだということに気づいたんです。植物が環境に合わせてこう伸びてきて、風にしなっても葉っぱが起き上がるのは、ちょうど適したやわらかさがあったり、あの茎の向きはバランスをとっているとか。理屈を超えて実感として初めて、ああ植物の世界は本当に完璧なんだ、という絶対的な信頼を感じたんです。自分がつくる形の不完全さを、あまり感じ取っていなかったんですが、それ以降「なんか違う、いや違う」という思いが芽生えて。どうしたら植物の世界と同じ地平に立つものを自分の手から生み出すことができるのか。その試行錯誤をずっとしている感じです。
僕の体験の入り口は水仙ですが、水仙を通して全体の世界につながったという感覚がありました。それはもう自分と自分が見ている世界との隔たりがない状態だったと思うんです。
見る人が作品を通じて、世界の生命が根底でつながっている、その大きな流れに触れることができるかどうか。作品がその入り口になれるか。そこへの通路を作り出すことができるかどうか。その問いが常にあります。

自分と対象との交わりを感じる豊かさ

僕は美術の作品を見るときも、ものを食べていて本当に美味しいと思うときも、自分の身体をすごく意識できるものがいいものだと思うんです。数年前にゴッホの晩年の絵を観て身体の奥から立ち上がってきた感覚とか。初めて猟に同行して鹿肉を食べた時に、噛み締めて味わいながら、同時に自分の身体のこともすごく感じていたこととか。対象と自分とが分け隔てなく交わっていると意識した時に感じる豊かさが、僕にとってはとても大事なんです。
文明が発達して、一体であったはずの自然とのつながりが隔てられ、どんどん薄くなって、今にも切れそうになっています。でも深いところで、美がそれをつなぎ留めているのではないかという希望があります。美しいと思う瞬間って、何かしら自分の中に持っているものと共鳴するものがあるから美しいと感じるのではないかと。作品を彫るために花を摘む瞬間に、花と目が合ったような気がするものを選ぶのも、自分の中で響き合っているものがあるからこそ。そのような瞬間的に立ち上がってくる喜びは、人にとって不可欠なような気がします。

見過ごせないものとの親密な関係

地球上で生き物がそれぞれに重要な役割を果たしているのに、なぜ自然環境を害するような人間のような生き物が存在するのか、と思うこともあります。でもそんな人間に生まれてできるひとつの性質が、生命の美しさを発見できることだと思います。鹿が素通りするような石ころに興味を引かれたり、食べられない毒草を美しいと思って人と分かち合いたいと思って持ち帰ったり。生き物の中でも非常に不可解な行動ではありますが、なんか憎めないなあ、と。
足元の本当に小さな美こそ見過ごしがちですが、ああ綺麗だな、と思う個人的な体験が一度でもあると、行動が変わっていくんですよね。幼少期の僕はとてもキレやすかったのですが、徐々にそのガサツさが取れていきました。きっかけは、より小さな生き物と親しくなり、触れ合うことによって、「見過ごせないヤツ」という意識が芽生えていったことでした。美しさを見出す行為は、そこに親密な関係が構築されることだと思いますし、本当にささいなことだと思います。でも、その積み重ねでしか変化は起きないような気がしているんです。
隠れた美を発見し、手を加えてそれを引き出すのが美術家の仕事ですけれども、僕は自分の手の跡は消していきたい。自然の理に対して、自分の思いや理解がまだあまりにも浅いと感じるからです。作品と見る人の間に道がスーッと通るように、その理に沿って彫ることを今は意識しています。

Text: Aya Ogawa
Photography: Tadayuki Minamoto